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初代リーズ公トマス・オズボーン(Thomas Osborne, 1st Duke of Leeds, KG, PC, 1631年2月20日 - 1712年7月26日)は、17世紀イングランドの政治家。イングランド王チャールズ2世の側近として活動、ウィリアム3世・メアリー2世夫妻の治世で公爵に叙爵された。ウィリアム・テンプルの妻ドロシー・オズボーンは従姉妹に当たる。 1665年、ヨークで国会議員に選出されたのをきっかけに政界へ進出、1668年に海軍主計長官、1673年に審査法で辞任したクリフォード男爵に代わって大蔵卿に就任、同年にラティマー子爵に叙爵された(しかし、すぐに次男のペレグリンに代えられた)。翌1674年にダンビー伯爵に叙爵、チャールズ2世の側近集団であったcabal(クリフォード男爵、アーリントン伯、バッキンガム公、シャフツベリ伯、ローダーデイル公)が分裂したため代わってチャールズ2世の側近となり、外交と議会運営に尽力した。 外交では親フランスだった方針を反フランスに転換、チャールズ2世の甥でオランダ総督ウィレム3世(後のウィリアム3世)とチャールズ2世の姪で弟ヨーク公ジェームズ(後のジェームズ2世)の娘メアリー(後のメアリー2世)の結婚を取り纏め、議会の反発を和らげた。一方、議会内部で宮廷党と呼ばれるグループを結成、与党勢力を作り上げて政局を安定させていた。しかし、1678年のカトリック陰謀事件の煽りでチャールズ2世の命令で行ったフランス王ルイ14世との密約が野党のホイッグ党に暴露され、翌1679年に失脚した。同年にロンドン塔に投獄されたが、1684年にホイッグ党の衰退により釈放された。 チャールズ2世が亡くなりジェームズ2世の治世になると専制に反対してオランダ総督ウィレム3世と連絡を取り合うようになり、1688年に6人の貴族(シュルーズベリー伯チャールズ・タルボット、デヴォンシャー伯ウィリアム・キャヴェンディッシュ、ラムリー男爵リチャード・ラムリー、ロンドン主教ヘンリー・コンプトン、エドワード・ラッセル、ヘンリー・シドニー)と共にウィレム3世・メアリー夫妻を招聘、名誉革命のきっかけを作り北部のヨークシャーを押さえた。この功績で翌1689年にカーマーゼン侯爵に叙爵、同年枢密院議長に任命され政権運営を担い、1694年にリーズ公爵に叙爵された。しかし、同年にウィリアム3世がホイッグ党を登用してジャントー政権を樹立するようになると影響力を失い、翌1695年に収賄の罪を議会に弾劾され、1699年に議長を辞任、1712年に死去。長男のエドワードに先立たれたので、リーズ公爵は次男のペレグリンが継いだ。 トマスが結成した宮廷党は政党として発展、後のトーリー党へと変化した。 == 子女 == 1651年、第2代リンジー伯モンタギュー・バーティの娘ブリジットと結婚、9人の子を儲けた。 #エドワード(1655年 - 1689年) - ラティマー子爵 #息子(1657年)? #アン(1657年 - 1722年) - ロバート・コークと結婚、ホレイショ・ウォルポールと再婚。 #ペレグリン(1659年 - 1729年) #ブリジット(? - 1718年) - プリマス伯チャールズ・フィッツクラレンスと結婚、ヘレフォード司教フィリップ・ビッセと再婚。 #キャサリン(生没年不詳) - ジェームズ・ハーバートと結婚 #ソフィア(1661年 - 1746年) - ドノー・オブライエンと結婚、レミオンスター男爵ウィリアム・ファーマーと再婚。 #マーサ(1664年 - 1689年) - バス伯チャールズ・グランヴィルと結婚。 #娘(生没年不詳、夭折) 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「トマス・オズボーン (初代リーズ公)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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